本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:迷ふ身が今は八溝へ詣りきて 仏のひかり山もかがやく
創建と再興
日輪寺の創建については不詳ですが、寺伝によれば白鳳年間(7世紀後半)に役小角が開いた寺と伝えられています。その後、廃寺となりましたが、大同2年(807年)に空海(弘法大師)が本尊として自作の十一面観音を祀り、中興したと伝えられています。八溝山の名は八つの谷に分かれた山容から空海が命名したと伝えられており、日輪寺の名もまた空海がこの地で邪鬼を退散させた伝説に由来するといわれます。そして、永延3年(989年)には観音霊場のひとつとなりました。
平安時代から鎌倉時代
平安時代から鎌倉時代にかけて、日輪寺は修験者や行者を中心に霊場化し、特に鎌倉時代からは坂東二十一番札所として不動の信仰を得るようになりました。
室町時代から江戸時代
室町時代以降、日輪寺は隆興し、修験者など行者を中心に霊場化し、文明年間(15世紀後半)には、本堂内に総欅造りの大伽藍や地蔵堂などの堂宇が揃う壮大な寺院となりました。江戸時代には江戸幕府から朱印状7石を与えられ、徳川光圀も寺の維持に尽力しました。
しかし、寛永20年(1643年)に火災で伽藍は焼失し、万治3年(1660年)に再建されましたが、明治時代に入ってからは衰退し、1880年(明治13年)には山火事に遭い、本尊を残して再び焼失しました。
現在の姿
現在、日輪寺は観音堂ほか数棟を残すのみとなっていますが、再建された本堂もあり、遠近からの参拝者で賑わっています。
坂東札所第21番としての日輪寺
日輪寺は坂東三十三観音巡礼の第21番札所として知られ、巡礼者にとっては最大の難所とされています。茨城県最高峰である八溝山の八合目付近に位置することから、その登山は困難であり、山頂へと至る林道が整備されるまでは、麓からの遥拝という形で参拝することもありました。
八溝嶺神社
八溝山の山頂には、豊作祈願の神を祀った閑静な佇まいの八溝嶺神社が鎮座しています。