日立風流物の起源
日立風流物は、元禄8年(1695年)、水戸藩2代藩主徳川光圀の命により、神峰神社が宮田・助川・会瀬の3村の鎮守になった際、宮田村の氏子たちが無病息災・五穀豊穣などを祈願して山車を造り、祭礼に奉納したのが始まりです。享保年間(1716~1736年)からは、人形芝居が組み合わされるようになりました。
日立風流物の特長は壮大な山車とからくり人形芝居であり、江戸中期の人形浄瑠璃の影響を受けた村人たちが農作業のかたわら技術を磨き、人形作りを自分たちのものにしていきました。
現在、日立風流物は日立市宮田町の4つの地区(東町、北町、本町、西町)でそれぞれ1台ずつ継承され、村人たちの大きな娯楽となっています。この4町が競い合い、明治中期から大正初期にかけて改良を重ね、現在の5層の大型山車へと進化しました。
戦災と復興
昭和に入ってからの日立風流物の公開は、太平洋戦争へと向かう世相の影響を受け、昭和11年(1936年)以降中断していました。昭和20年(1945年)7月には米軍の焼夷弾攻撃により山車4台のうち2台が焼失、1台が半焼し、人形の首も約7割を焼失しました。
しかし、昭和29年(1954年)には宮田風流物保存会(現在の日立郷土芸能保存会)が結成され、復興の機運が高まりました。昭和32年(1957年)には茨城県無形文化財に指定され、昭和33年(1958年)には1台が復元され、21年ぶりに公開されました。
日立風流物の発展
昭和34年(1959年)5月には国の重要有形民俗資料(後の重要有形民俗文化財)に指定されました。山車や屋台の組立てから製作、屋形の展開操作、からくり人形の製作操作、山車の運行、鳴物演奏などの全てが神峰神社の氏子(現在は日立郷土芸能保存会会員)たちの手によって行われ、地域の人々の郷土への祈りと愛情が込められています。
昭和41年(1966年)5月までに4台すべてが復元されました。昭和49年(1974年)には天皇皇后両陛下が日立風流物を御覧になり、昭和52年(1977年)には4台揃って国の重要無形民俗文化財に指定されました。
平成21年(2009年)にはユネスコ無形文化遺産に登録され、平成28年(2016年)には他の31行事と共に「山・鉾・屋台行事」として拡張登録されました。
日立風流物の大きさと構造
現在の日立風流物は、高さ15メートル、幅3~8メートル、奥行7メートル、重量5トンの全国有数の大型山車です。上部には5層の唐破風造りの屋形があり、各層が中央から両側に開いて舞台となる構造になっています。5つの各層で「源平盛衰記」や「忠臣蔵」などのからくり人形芝居が場面を配して演じられ、操り糸の操作によって人形の早がえりなどが行われます。
日立風流物の公開
日立風流物は毎年4月上旬に開催される「日立さくらまつり」にて、4町の廻り番で1台が公開されるのが恒例です。さらに7年に1度、神峰神社大祭礼に併せて4町の山車すべてが公開されます。
宮田風流物の歴史
以前は「宮田風流物」と呼ばれ、神峰神社の大祭礼時には宮田地区の四町(東町、北町、西町、本町)から一台ずつ拝殿前へ曳き出され奉納されてきました。しかし、昭和20年の戦災により大半を焼失しましたが、昭和33年に北町の山車が復元され、昭和34年に国の重要有形民俗文化財に指定されました。さらに、人形操作などが国の重要無形民俗文化財にも指定されました。
日立風流物の由来
日立風流物(ひたちふうりゅうもの)は日立市の前身である日立村の鎮守神峰神社の祭礼に、氏子達が奉納の意味で造った山車に操り人形を配したもので、江戸時代中期の享保年間に始まり、文化文政の頃には山車に改善を加え、山車そのものがからくりとなりました。精緻で豪壮な変化に富んだ山車は明治初期には現在の形に進化しました。
昭和34年には山車として初めて国の重要民俗資料に指定されました。現在、日立市には東町、北町、西町、本町の4台の山車があり、それぞれ異なる人形芝居を演じます。
演目と各町の内容
人形芝居の内容は各町ごとに異なります。
東町
表山: 風流源平盛衰記
裏山: 日立伝統かびれ霊峰とお岩権現
北町
表山: 風流太閤記
裏山: 風流花咲爺
本町
表山: 風流時代絵巻
裏山: 風流天照大御神の昇天の場と素戔嗚尊の大蛇退治
西町
表山: 風流忠臣蔵
裏山: 風流自雷也