代表的な童謡作品
七つの子
烏 なぜ鳴くの 烏は山に
可愛い七つの 子があるからよ・・・
シャボン玉
シャボン玉 飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた・・・
これらの童謡は、野口雨情が作詞したものであり、多くの人々に愛され続けています。
野口雨情の生涯と信念
雨情は「作者の名が残らなくても良い、作った詩歌が世の人々に永く愛され歌われるなら、それが本望」という信念のもと、約3,000もの作品を世に残しました。そして、その信念を超え、作詞した童謡や校歌は、雨情の名とともに今もなお歌い継がれています。
野口雨情記念館の展示内容
第一展示室 ~野口雨情関係~
第一展示室では、野口雨情の人となりや童謡・新民謡などの作品を通して、雨情の果たした業績について紹介しています。原稿、手紙、著作、美しい挿絵とともに「赤い靴」「七つの子」「シャボン玉」などの作品が掲載された雑誌などが展示されており、雨情の童謡に込めた思いを伝えています。また、全国各地を巡って創作した新民謡も展示されており、地元の誇りである名所旧跡を唄いあげています。
第二展示室 ~北茨城市の歴史や民俗~
第二展示室では、北茨城市の歴史や民俗を、資料やパネルなどによってわかりやすく紹介しています。市内で出土した考古資料からは、古代の人々の生活をうかがい知ることができます。また、東廻り航路の寄港地として知られる平潟港や幕末の大津浜でおこった異人上陸事件、農業用水「十石堀」の掘削、第二次世界大戦中の風船爆弾といった歴史の一場面を展示しています。江戸時代末から昭和40年代まで北茨城市の基幹産業であった石炭産業については、実際に使用されていた器具や写真から知ることができます。
童謡詩人、野口雨情
詩人、童謡・民謡作詞家であり、多くの名作を残しました。北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われました。
生い立ち
野口雨情は、1882年5月29日、茨城県多賀郡磯原村(現北茨城市磯原町)に父量平、母てるの長男として生まれました。生家はかつて水戸徳川家藩主の御休息所で「観海亭」と称され「磯原御殿」とも言われた名家でした。家業は廻船業を営み、父は村長を2期務めた人望家でもありました。
1897年、伯父の衆議院議員野口勝一(北厳)宅に寄宿し、1901年4月、東京専門学校高等予科文学科(現早稲田大学)に入学しますが、1年余で中退しています。少年時代より文学的素養に富み、回覧雑誌への掲載のために民謡風の作詩をしていたと言われています。
詩壇登場と漂泊のころ
雨情の詩人としてのスタートは、不運と失意のくりかえしでした。1902年3月、文芸雑誌「小柴舟」によって詩壇に登場しますが、著名の域までにはいたりませんでした。1904年、父の死により帰郷、家督相続、そして高塩ヒロと結婚。1905年3月、処女詩集「枯草」を自費出版したものの、中央詩壇までは響きませんでした。
1906年樺太に渡り、その後、早稲田詩社の結成に参加し、やがて北海道に新聞記者として渡り2年余り漂泊しました。この間、石川啄木との交友がありました。1912年、中央より離れて帰郷し、詩作活動を続けながら村の公職にも就いています。
童謡・民謡詩人としての活躍
1915年、妻ヒロと離婚の後、現いわき市常磐湯本町の柏屋に移り、詩作活動を続けます。1918年、水戸へ出て「茨城少年」の編集にあたりながら童謡作品を発表し、秋、中里つると結婚します。1919年、西条八十等の紹介もあり、中央の児童雑誌に童謡作品の発表を開始します。
また自由詩集『都会と田園』の刊行により詩壇復帰をはたします。著名な「船頭小唄」(原名枯れすすき)を作詞し、中山晋平に作曲を依頼したのもこの頃です。1921年には「七つの子」「赤い靴」「青い目の人形」などの作品を発表し、1922年から『コドモノクニ』にも作品を発表します。「雨ふりお月さん」「あの町この町」「兎のダンス」等は、この雑誌に掲載されました。作曲家の本居長世、中山晋平、藤井清水等が雨情の試作に最適の曲譜を付けたことも幸運でした。
雨情はこの時期ごろから全国各地への童謡・民謡普及のための講演旅行が多くなり、その足跡は国内のみならず当時の台湾・朝鮮・満州・蒙古にまで及んでいます。新民謡作品も「須坂小唄」をはじめ、全国各地で数百編にもなります。
1935年ごろから詩作は減少し、1943年病に倒れます。1944年宇都宮郊外に戦火を避けて疎開します。1945年1月27日、永眠、享年63歳。