岡倉天心旧宅・庭園及び大五浦・小五浦
近代日本美術の発展や文化財保護に多大な功績を残した岡倉天心が転居した地で、邸内には居宅、長屋門、六角堂があり、天心が造った庭園も存在します。居宅から見える大五浦・小五浦は大小の岩礁が点在し、豊かな風致景観を成しています。
岡倉天心の生涯と五浦への移住
岡倉天心は日本の美術思想家であり、明治31年(1898年)に東京美術学校校長を辞職した後、日本美術院を設立し、明治36年に五浦に転居しました。その後、1年間のボストン滞在から戻った天心は邸宅の大改造に着手しました。天心邸の敷地は、なだらかに海へと傾斜する固い岩盤上にあり、一部はダイナマイトを用いて造成されたものです。
邸宅と庭園の特徴
天心邸には、母屋の中心部分や長屋門が現在も残っています。また、眼前に広がる太平洋(大五浦・小五浦)とそこに点在する岩礁も庭園の要素として取り込まれています。このように、岡倉天心旧宅と庭園は、日本近代の美術史及び造園文化の発展に寄与した意義深い場所です。
六角堂の構造
六角堂は、地質学的には炭酸塩コンクリーションと呼ばれる海中堆積物の隙間に局所的に炭酸カルシウムが濃集した非常に固い岩石の基盤上に建っています。津波による消失前の六角堂は、面積9m²の仏堂と茶室を融合させた造りで、簡素な造りながらも中に入った者に広いと感じさせました。
消失前の六角堂
六角堂自体は奈良県にある法隆寺の夢殿や京都府の頂法寺(六角堂)、さらには中国・四川省の成都市にある杜甫の草堂を模したものとされています。茨城大学教育学部教授の小泉晋弥は、それらすべての影響を受けていると述べています。
六角堂の歴史
明治時代の建設と天心の思索の場
六角堂は、1905年(明治38年)に岡倉天心が自ら設計し、観瀾亭(かんらんてい)と名付けられた赤い六角形の堂です。五浦海岸の茨城大学五浦美術館研究所内にあり、天心が思想にふけった場所として知られています。背後には緑の松林、前には五つの浦が広がり、太平洋の白波が砕け散るその雄大な姿は訪れる人々に感銘を与えました。
天心の没後と管理の移行
天心亡き後、六角堂は天心の遺族や岡倉天心偉績顕彰会を経て、茨城大学の管理下に入りました。日本の美術界において一種の聖地としての役割を果たし続けています。2011年の東日本大震災では津波による甚大な被害を受け、六角堂は消失しましたが、その後再建されました。
震災と再建
東日本大震災による消失
2011年3月11日に発生した東日本大震災により、六角堂は津波の直撃を受けて消失しました。文化財被災のシンボルとして、多くの人々からの支援と共に再建への動きが始まりました。
再建計画と完成
再建計画では、創建当時の姿を取り戻すため、出窓や炉の復元が行われました。2012年4月17日には完成式が行われ、多くの関係者が出席しました。再建された六角堂は震災からの復興のシンボルとして、多くの人々に新たな感動を与えています。
再建された六角堂
再建計画では、1辺が約1.8mの六角形で、高さ約6.2mの六角堂がベンガラ彩色で再建されました。中央には六角形の炉が切られ、その下には六角形を作るために掘られた穴が保存されています。堂内床面積は約10m²で、海側には窓が設けられています。
再建に用いられた材料と寄付
建築材料は各地から取り寄せられました。2012年1月には福島県いわき市の男性が六角堂に使う杉の原木を寄付し、岡山県高梁市の西江邸からは塗料のベンガラ2.5kgが寄贈されました。また、京都府長岡京市にある株式会社京都平安美術の河村悠介代表がベンガラ塗装技術を伝授しました。瓦は愛知県から、ガラスはイギリスから仕入れ、コンクリートの土台を覆う御影石は久慈郡大子町のものが使用されました。
構造
六角堂は炭酸塩コンクリーションと呼ばれる非常に固い岩石の基盤上に建っています。再建された六角堂は、1辺約1.8m、高さ約6.2m、床面積約10m²で、海側に窓があり、太平洋の雄大な景観を眺めることができます。
観光地としての六角堂
六角堂は文化財としてだけでなく、観光地としても重要な存在です。特に茨城大学を訪れるインド人研究者など、多くの観光客が訪れています。観光者は入場料を払い、松林の坂道を下って六角堂に達し、ガラス越しにその内部を見学することができます。