美術館の特徴と展示内容
茨城ゆかりの作家をはじめ、日本と西洋の近代美術作品を紹介
茨城県近代美術館は、横山大観など茨城県ゆかりの作家を中心に、国内外約4,000点の近現代美術作品を収蔵・展示しています。代表的な所蔵作品として、ロダン作「三つの影」や横山大観作の「流燈」などがあり、これらを鑑賞することができます。
美術館南側には、水戸市出身の洋画家・中村彝(つね)のアトリエを新築復元し、彝の遺品や資料を公開展示しています。
美術館では、企画展や所蔵作品展のほか、映像やパネル等によって作家や技法、美術の流れを紹介するコーナーや創作コーナーも設置されています。さらに、企画展ごとの講演・講座、ギャラリートーク、ワークショップ、ミュージアムコンサートなど、さまざまな美術普及事業を実施しています。
美術館の沿革
- 1947年(昭和22年):茨城県立美術館開館(常陽明治記念館内)
- 1956年(昭和31年):茨城県立美術館移転(茨城県立図書館内)
- 1966年(昭和41年):茨城県立美術博物館開館(茨城県立県民文化センター内)
- 1988年(昭和63年):茨城県近代美術館開館(現在地)
- 1988年(昭和63年):美術館敷地内に中村彝のアトリエを新築復元し「中村彝アトリエ」が創設される
所蔵作品について
茨城県は、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山ら「五浦の作家」や、牛久沼のほとりに住み自然とともに生きる人々や動物たちを描いた小川芋銭などの日本画家、また、大正期に活躍した中村彝らの洋画家など、日本近代美術の発展において重要な役割を果たした作家を輩出しています。
茨城県近代美術館では、歴史に名を刻んだ郷土作家の作品をはじめ、国内の近現代美術作品を中心に所蔵しています。
中村彝について
中村 彝の生涯
中村 彝(なかむら つね、1887年〈明治20年〉7月3日 - 1924年〈大正13年〉12月24日)は、大正期の洋画家です。
- 1887年(明治20年):茨城県千波村(現在の水戸市)に生まれる。男3人女2人の5人兄弟の末子であったが、兄2人と姉1人は彝が10代の時に相次いで亡くなる。父は彝が生まれた翌年に没しており、母も彝が11歳の時に没した。軍人の兄を頼って上京し早稲田中学校に進むが、自身も軍人を目指すべく名古屋陸軍地方幼年学校に転じるため中退する。
- 1904年(明治37年):祖母が死に、唯一生き残った2番目の姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり、一人暮らしを余儀なくされる。彝自身も結核を病み、療養のため学校(陸軍中央幼年学校)を中退した。
- 1905年(明治38年):18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に赴き、この地で水彩スケッチを始める。翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をするが、その間にも千葉県などへ転地療養を繰り返す。
- 1909年(明治42年):第3回文展に初入選。
- 1910年(明治43年):第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり、この作品は実業家の今村繁三が購入する。
- 1911年(明治44年):新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになる。相馬夫妻は、彫刻家・荻原碌山や中原悌二郎をはじめ多くの芸術家を支援していた。
彝の代表作と晩年
中村彝の代表作には、1914年の「小女」や1920年の「エロシェンコ像」があります。彼はルノワールやロダンの作品に影響を受けました。晩年には結核により病臥の生活が続きましたが、1924年に37歳で亡くなるまで、数々の名作を残しました。
彼の絶筆となった『頭蓋骨を持てる自画像』や『静物』(未完)は、その表情には苦行僧か聖人のような澄みきった境地が感じ取れます。中村彝の墓所は水戸市祇園寺にあります。