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水戸城

(みとじょう)

復元が進められている水戸徳川家の居城

茨城県水戸市の中心部に位置する水戸城は、江戸時代に徳川御三家の一つ、水戸徳川家の居城であり、水戸藩の政庁が置かれました。現在は茨城県指定史跡であり、三の丸にある藩校・弘道館は国の特別史跡として指定されています。壮大な土塁と空堀、そして歴史的な建造物が残る水戸城は、江戸時代の城郭建築を今に伝える貴重な存在です。日本100名城(14番)に選定されています。

国内最大規模の土造りの城

水戸城は、北を那珂川、南を千波湖に挟まれた、日本最大級の土造りの城です。石垣構築の計画は何度かありましたが、諸事情により実現することはありませんでした。大規模な土塁とともに、城の西側の台地には五重の堀、東の低地には三重の堀を巡らせ、石垣を持たない代わりに、堅牢な土塁と堀を組み合わせることで、防御機能を高めていました。

歴史

水戸城の歴史は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけて馬場氏の手により建てられた館に由来します。その後、江戸氏、佐竹氏の手を経て、慶長14(1609)年に徳川頼房公が水戸に封じられるとともに、水戸徳川家の居城となりました。頼房公は三の丸や外堀の整備拡張を行い、二の丸に御殿を造営し、三階物見と呼ばれる櫓を建設しました。しかし、この三階物見は明和元(1764)年の火災で焼失し、後に再建された際には屋根を銅瓦葺とし、天守らしく鯱を上げ三階櫓(御三階櫓)と呼ばれました。

三階櫓

三階櫓は外観三層、内部五階の大型の櫓で、石垣がない代わりに一層目の下部を海鼠壁で覆い、まるで石垣の上に建っているかのような姿を見せていました。昭和20年(1945年)の戦災で焼失するまで、水戸のシンボルとして親しまれていました。

現存する遺構

現在では、土塁や堀、三の丸に作られた藩校弘道館や薬医門などが残り、かつての姿を偲ぶことができます。また、史料に基づき復元された大手門と二の丸角櫓、歴史的モニュメントとして設置された杉山門や柵町坂下門などにより、かつての城の雰囲気を感じられるようになっています。

水戸城 大手門

水戸城大手門は、水戸城内で最も格式が高い門であり、明治期に解体されるまで城の正門としてその威容を誇っていました。かつての大手門は、何度かの建て替えを経てはいるものの、もとは佐竹氏が水戸城主だった慶長6年(1601年)頃に建てられたものだと考えられています。

復元された大手門

現在見られる門は、令和2年2月に天保年間の姿で復元が完了したもので、高さ約13メートル、幅約17メートルの巨大な櫓門です。水戸城跡のシンボルとも言える存在であり、その古風な外観は江戸時代初期の様式を残しています。土塁に取り付く大手門としては国内屈指の規模を誇ります。

瓦塀の発見

復元工事に伴う発掘調査により、門の四隅に大型の瓦塀(練塀)があったことが判明しました。発掘された瓦塀の実物を覆う形で外観が整備され、門正面、北側の瓦塀下部に設けられた小窓からは、当時の瓦塀の姿を見学することができます。

水戸城 二の丸角櫓

二の丸角櫓は、水戸城内に存在していた角櫓のひとつであり、水戸駅からほど近い、二の丸の南西部角に位置していました。櫓本体は、2階建の角櫓と、その北側・東側に接続される2つの多聞櫓(北多聞櫓・東多聞櫓)から構成され、全体で見るとL字型をしています。

復元された角櫓

かつて城内には4基の角櫓が建てられており、城の北側よりも南側(城下町側)にかたよって設けられていたことから、城下から城を見上げた際の視線を意識してつくられたと考えられています。

現在見られる櫓は、大手門をはじめとする城跡周辺の歴史的建造物整備の一環として、過去の発掘調査や史資料調査の結果を踏まえて、当時と同じ場所に天保年間の姿で復元されたものです。

一般公開

令和3年6月27日から一般公開が始まり、櫓内では水戸城に関する映像や資料等を見ることができ、櫓の前には、発掘された当時の礎石が展示されています(2階は通常非公開です)。

水戸城の歴史

概要

水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城です。北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀として利用していました。台地東端の下の丸(東二の丸)から西に向かって本丸、二の丸、三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていました。城郭は主に土塁と空堀で構成されており、戦国期東国の典型的な城とされています。

馬場・佐竹時代

水戸城の築城は古く、平安時代末期まで遡ります。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により建久年間(1190年 - 1198年)に築かれ、その後、大掾氏(馬場氏)の居城となりました。このため、佐竹氏が入城するまでは「馬場城」と呼ばれていました。

1416年(応永23年)、室町時代に入り上杉禅秀の乱が発生。当主の大掾満幹は上杉禅秀側に加担しましたが、足利幕府側についた江戸通房に敗れました。これにより、江戸氏が新城主となり、その支配は約170年間続きました。江戸氏は佐竹氏と度々対立しました。

戦国時代の動乱

1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、江戸重通は北条氏側に加担しましたが、逆に佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣し、常陸一国54万石を与えられました。義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、1594年(文禄3年)に重通を敗走させました。

義宣は馬場城から水戸城に改名し、重要な拠点と定めました。しかし、佐竹義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで曖昧な態度を取り続けたため、1602年(慶長7年)に徳川家康により水戸から追放され、出羽国秋田に転封させられました(久保田藩)。

徳川時代の繁栄

水戸城は、江戸時代には徳川御三家の一つである水戸徳川家の居城として、また水戸藩の政庁として重要な役割を果たしました。1609年(慶長14年)、徳川家康の末子で十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城し、以降、廃城まで水戸徳川家の居城となりました。

頼房は城と城下町を拡充し、二の丸に居館を構えました。巨大な三階櫓(内部は5階建て)を二の丸に建造し、藩校の弘道館を1841年(天保12年)に9代藩主の斉昭が開校しました。翌年には偕楽園も設立されました。

幕末の動乱

幕末には水戸藩内で改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起こりました。1864年(元治元年)、天狗党が筑波山で挙兵し、天狗党の乱が発生しました。この対立は明治維新まで続き、1868年(明治元年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃しました。この際、多くの建物が焼失しました。

近現代の水戸城

廃藩置県とその後

1871年(明治4年)の廃藩置県により水戸城は廃城となり、翌1872年(明治5年)には東京鎮台の歩兵2個小隊が駐屯し、第4分営となりました。同年に放火事件が起こり、本丸隅櫓を焼失しました。1945年(昭和20年)の水戸空襲で三階櫓も焼失しました。

その後、1952年(昭和27年)に弘道館が国の特別史跡に指定され、1964年(昭和39年)には弘道館正庁、至善堂、正門および塀が国の重要文化財に指定されました。さらに1967年(昭和42年)には土塁と空堀が茨城県の史跡に指定され、1983年(昭和58年)には薬医門が茨城県の指定建造物となりました。2006年(平成18年)4月6日には、日本100名城に選定されました。

木造復元整備事業

平成に入ってから、水戸市によって大手門や二の丸角櫓などの整備計画が進められました。大手門は2020年2月4日に木造復元式典が開かれました。復元工事の一環として、「一枚瓦城主」として寄付を募り、大手門の瓦を復元するための資金が集められました。

発掘調査では、門と土塀の間に瓦と粘土を交互に積み上げた練塀が確認され、門と共に木造復元されました。また、二の丸角櫓および二の丸土塀は、2021年6月27日より一般公開が開始され、訪れる人々にかつての水戸城の姿を伝えています。

Information

名称
水戸城
(みとじょう)

水戸・笠間・ひたちなか

茨城県