立地と構造
逆井城は、北側に西仁連川用水を臨み、西側にはかつて入江だった蓮沼が存在する台地の先端に位置しています。江戸時代の干拓以前、この地域には南北に30kmにわたる広大な沼地が広がっており、その名を「飯沼」と称しました。この沼は城の北方で東西に蛇行しており、逆井城はこの沼の蛇行部に位置していたため、自然の要害としての役割を果たしていました。
城の本丸は、北崖を飯沼に洗われた堅固な地形を活かし、最北端に配置されています。また、南側には複数の曲輪が連なり、大規模な防御施設が築かれており、大軍も収容できる構造となっています。
築城の歴史
逆井城の築城は、享徳年間(1449年-1452年)ごろとされています。初代城主は小山義政の五男、常宗であり、彼がこの地を領有し、逆井氏を名乗り始めました。しかし、常宗の孫である常繁の代に、逆井氏は古河公方方に属していたため、後北条氏との対立が激化しました。
天文5年(1536年)、後北条氏の軍勢を率いる大道寺盛昌によって逆井古城は攻撃され、落城しました。逆井氏はこれにより滅亡したとされていますが、落城の時期については異論もあります。
後北条氏時代の逆井城
逆井城はその後、後北条氏の支配下に入り、天正5年(1577年)には玉縄城主北条氏繁によって再築されました。この再築は、逆井の地が北条氏にとって下野・常陸方面への侵攻の最前線であったため、最新の築城技術が投入されました。再築後の城は「飯沼城」とも呼ばれ、氏繁が城主として佐竹氏や多賀谷氏との戦いに備えました。
天正6年(1578年)、氏繁は逆井城で亡くなり、その後は子の氏舜・氏勝兄弟が城を継ぎました。城には風魔小太郎の子・風魔孫右衛門が率いる忍者集団300人が駐留していたとも伝えられています。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐により後北条氏が没落すると、逆井城も廃城となりました。
逆井城跡公園
現在、逆井城跡は公園として整備されており、櫓、土塀、櫓門、木橋などが発掘調査に基づき復元されています。これらの復元物は、時代考証に基づいており、中世城郭の姿を可能な限り忠実に再現しています。復元の際には、遺構の保存を考慮し、位置を少しずらして配置されています。
見どころ
西二ノ曲輪には、逆井城以外から移築された建造物や復元された建造物があります。たとえば、関宿城の薬医門や復元された古河城書院の礎石などが展示されています。また、本丸の殿社の位置には堀之内大台城の御殿が復元されており、訪れる人々に当時の雰囲気を伝えています。
逆井城跡公園には、「鐘掘り池」という池もあり、その名は逆井城落城時に城主逆井常繁の妻(または娘)である智姫が、先祖伝来の鐘を被って入水したという伝説に由来します。この鐘を探すため、後に池が何度も掘り返されたことから「鐘掘り池」と呼ばれるようになりました。