大宝八幡宮の歴史
創建と発展
大宝八幡宮の創建は、大宝元年(701年)にさかのぼります。藤原時忠公が筑紫の宇佐神宮を勧請し、関東地方最古の八幡宮として創建しました。その後、平安時代末期にはすでに八幡信仰が広まっており、治承3年(1179年)の天台宗の古経文にもその記録が見られます。
平将門も度々参拝し、新皇の位を当宮の巫女から授けられたという伝承が残っています。また、文治5年(1189年)には、源頼朝が奥州征伐の戦勝を祈願し、鎌倉の鶴岡八幡宮若宮を勧請して摂社・若宮八幡宮を創建しました。
江戸時代から明治時代にかけて
寛政7年(1795年)には、光格天皇より額字と御紋付幕を賜り、明治19年には北白川宮から幣帛料が奉納されました。江戸時代には徳川家から115石の社領が寄進され、代々の朱印が与えられました。また、当宮を起源とする八幡宮は数多く存在し、特に東京の深川富岡八幡宮がその代表例とされています。
文化財と見どころ
本殿(国指定重要文化財)
現在の本殿は、天正5年(1577年)に下妻城主・多賀谷尊経公によって再建されたものです。三間社流造の建築様式を持ち、太く力強い柱が特徴です。一方で、組物(くみもの)は繊細で複雑に組み合わされ、桃山時代の地方色が色濃く表れています。華美な装飾はなく、落ち着いた風格を備えています。
史跡・大宝城跡(国指定文化財)
大宝八幡宮の境内は、平安時代から南北朝時代にかけて存在した大宝城の跡でもあります。城は東西288メートル、南北576メートルの台地に築かれ、西・北・東の一部が大宝沼に囲まれていました。
応徳3年(1086年)に下津間盛幹公が初代城主となり、以後、代々城主が交代しました。南北朝時代の興国2年(暦応4年・1341年)には、南朝方の拠点として機能しましたが、最終的に兵糧不足と寒さにより陥落しました。現在も御社殿裏には、当時を偲ぶ政泰公の碑が建てられています。
祭りと伝統行事
奇祭「タバンカ祭」(火まつり)
大宝八幡宮の例大祭は、「大宝まち」として親しまれ、9月15日・16日に執り行われます。その中でも特に特徴的なのが、9月12日と14日の夜に行われる「松明祭(タバンカ祭)」です。
この祭りは全国でも珍しい火祭りで、起源は応安3年(1370年)にまでさかのぼります。大宝寺の別当坊・賢了院が、火事を鎮めるために畳と鍋ぶたを使った故事に由来しています。祭りでは白装束の氏子青年が畳や鍋ぶたを拝殿前に投げ入れ、火の粉を浴びながら走り回ります。鍋ぶたを拾うと病気にかからないとされ、参詣者は競って拾おうとします。
貴重な社宝
瑞花双鳥八稜鏡(県指定文化財)
この鏡は白銅製で、高さ11.2センチメートル。鏡背には四分割された文様が施され、瑞花や鳳凰、蝶、唐草が繊細に描かれています。鋳造年代は11世紀頃と推定され、貴重な遺物のひとつです。
丸木舟(県指定文化財)
全長6.05メートル、幅58センチメートルのイトスギ製の丸木舟です。安政年間(1854年~1859年)に大宝沼の干拓作業中に発見されました。古墳時代後期のものとされ、貴重な考古資料として保存されています。
銅鐘(県指定文化財)
高さ108.1センチメートル、口径60.3センチメートルの青銅製の銅鐘です。1387年(嘉慶1年)に石室善玖が鋳造し、1456年(享徳5年)に猿島郡星智寺の所有となりました。1547年(天正1年)には戦利品として持ち帰られ、大宝八幡宮に奉納されました。
大宝八幡宮の伝説
「一つもの」の伝説
かつて、大宝沼には大きな白蛇が住んでいました。秋になると白蛇は家々の屋根に白い印をつけ、その家の娘を差し出さなければならないとされていました。人々は困り果て、白蛇を鎮めるために「一つ目のワラ人形」を作り、沼に捧げるようになりました。すると、白蛇は現れなくなり、村は平穏を取り戻したと伝えられています。
まとめ
大宝八幡宮は、関東最古の八幡宮として歴史的価値が高く、文化財や伝統行事も豊富な神社です。特に、奇祭「タバンカ祭」は全国的にも珍しく、多くの観光客が訪れます。歴史と伝統を感じながら、ぜひ一度参拝してみてはいかがでしょうか。