神社の概要
古代において、国司は国内のすべての神社を巡拝していましたが、その効率を図るため、各国の国府近くに国内の神々を合祀する総社が設けられるようになりました。常陸國總社宮は、常陸国の総社としてその役割を担ってきた神社です。
神社は石岡の中心市街地を見渡す丘陵の縁辺に鎮座し、西から南にかけて恋瀬川の低地を望んでいます。社地は旧常陸国衙(こくが)に隣接し、氏子の数は平成6年(1994年)時点で約2,500戸にも達します。各町ごとに氏子会が組織され、地域に根ざした信仰が続いています。
常陸國總社宮例大祭
毎年9月に行われる「常陸國總社宮例大祭」は「石岡のおまつり」として知られ、関東三大祭りの一つに数えられます。この祭りは地域の重要な行事として、地元の人々や観光客に親しまれています。
祭神
常陸國總社宮では、以下の6柱の神々が祀られています。
- 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
- 大國主尊(おおくにぬしのみこと)
- 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
- 瓊々杵尊(ににぎのみこと)
- 大宮比賣尊(おおみやひめのみこと)
- 布留大神(ふるのおおみかみ)
寛政3年(1791年)の『総社神宮祭礼評議』によると、祭神は大己貴命(おほなむちのみこと:大国主尊と同じ)であり、木像のうち6体は「怪敷(あやしき)形」であるとされています。
神社の歴史
創建と由来
社伝によれば、常陸國總社宮の創建は奈良時代の天平年間(729年 - 749年)とされています。しかし、『石岡市史 下巻』では、総社の制度が平安時代末期に確立したことを考えると、この創建年代に疑問があるとされています。
当初の社名は「国府の宮」でしたが、延喜年間(901年 - 923年)に天神地祇(てんしんちぎ)の6柱の神が祀られるようになり、「六所の宮」と称されるようになりました。その後、「総社」という名称に改められました。また、創建当初の社地は現在の常陸国分尼寺跡付近にあったとされますが、天慶年間(938年 - 947年)に大掾氏(平詮国)が常陸府中(石岡)に築城した際、鎮守のために現在の社地に移されたと伝えられています。
鎌倉時代末期には、神社の造営に関して鎌倉幕府との間で争いがありました。地頭らが造営の先例がないと主張したため、幕府が造営負担を命じ、これに対する反発がありました。この出来事は、当時の関東御家人の反発の一環として見ることができます。
中世から近世にかけての発展
中世には、3月3日と7月16日に国司代による奉幣の祭祀が行われ、常陸国内の神事を主導する役割を担っていました。また、戦国時代までには仏事にも関与する権力を有し、7名の総社供僧と呼ばれる仏教僧が神社に奉仕していたことが記録されています。
江戸時代には、常陸府中藩主の皆川隆庸が寛永4年(1627年)に現在の社殿を再建し、社領として25石が定められました。その後、拝殿の修築や本殿の銅瓦葺への変更が行われ、氏子らによる寄付で神社の基金が設けられました。
近代以降の発展
明治維新後、常陸國總社宮は近代社格制度のもとで郷社に列し、1900年(明治33年)には県社に昇格しました。昭和53年(1978年)には神社周辺に新町名「総社」が設定され、一丁目と二丁目が設けられました。そして、2005年(平成17年)には本殿が石岡市指定有形文化財に指定されました。
境内の見どころ
常陸國總社宮の境内は、2,513.26坪(約8.3ヘクタール)の広さを誇ります。本殿は流造銅葺で、面積は292平方メートル(3間四方)あります。この本殿は石岡市指定の有形文化財としても知られています。
また、拝殿脇には日本武尊腰掛石があり、神門外の土俵では常陸國總社宮大祭に合わせて相撲大会が行われます。江戸時代の祭りでは、この相撲大会が唯一の神事として行われていたという記録があります。
境内の摂末社
常陸國總社宮には以下の摂末社が存在します。
- 愛染神社
- 愛宕神社
- 厳島神社
- 稲荷神社
- 星の宮
- 松尾神社
- 八坂神社
- 十二社
- 神武天皇遥拝所
文化財
常陸國總社宮には、茨城県および石岡市の指定文化財が多数あります。中でも、茨城県指定の有形文化財である「常陸総社文書」は、古文書としての価値が高く、国衙の史料も含まれています。また、扁額三十六歌仙絵や漆皮軍配も重要な文化財として指定されています。