歴史と概要
創建と歴史的背景
息栖神社の創建は、第15代応神天皇の時代にまで遡ります。当初は神栖市日川にあったとされ、その後、大同2年(807年)に現在の場所に移転したと伝えられています。歴史的記録である『日本三代実録』には、仁和元年(885年)に「於岐都説神」として正六位上から従五位下に叙せられたという記載があり、これが息栖神社に関する最古の文献記録となっています。
この神社は、鹿島神宮や香取神宮と密接な関係を持ち、特に鹿島神宮の摂社としての役割を果たしてきました。鎌倉時代や室町時代の文献にもその名が見え、朝廷からの崇敬を受けるなど、古くから重要な神社として位置づけられていました。
神社の特徴と霊水「忍潮井」
息栖神社の大鳥居の両側には「忍潮井(おしおい)」と呼ばれる2つの井戸があり、それぞれに「男瓶(おがめ)」と「女瓶(めがめ)」と呼ばれる瓶が据えられています。この井戸から湧き出る清水は、日本三霊泉の一つに数えられ、霊水として信仰の対象となっています。江戸時代には、伊勢神宮の明星井、伏見の直井と並んで「日本三所の霊水」として有名でした。
この霊水には特別な力が宿っているとされ、男瓶の水を女性が、女瓶の水を男性が飲むと、その二人は結ばれるという言い伝えがあります。また、井戸は非常に澄んだ水をたたえ、天候が良い日にはその水底にある瓶を見ることができると言われており、その姿を目にした者には幸運が訪れるとされています。
社殿と境内
神門と参道
神門は弘化四年(1847年)の建築とされており、森閑とした参道へと続いています。松や杉の老大樹が立ち並ぶ参道を進むと、俳人・松尾芭蕉の句碑が目に入ります。杜の手前、常陸利根川沿いに位置する忍潮井があり、その神秘的な雰囲気は訪れる人々に深い印象を与えます。
社殿の再建
息栖神社の社殿は昭和35年(1960年)に火災で焼失してしまいました。焼失した社殿は享保7年(1722年)に建てられたもので、華麗な造りで知られていました。しかし、昭和38年(1963年)に再建され、現在の社殿は鉄筋コンクリート造りで本殿・幣殿・拝殿から構成されています。
焼失を免れた神門や、一の鳥居に隣接する忍潮井などは、現在でも当時の姿を残しており、訪れる人々にその歴史と伝統を伝えています。
東国三社巡り
息栖神社は、鹿島神宮、香取神宮とともに「東国三社」として巡礼の聖地となっています。江戸時代には「お伊勢参りの禊ぎの三社参り」として篤い信仰を集め、多くの人々がこの三社を巡りました。息栖神社は、鹿島神宮や香取神宮と比較して、より静かで趣のある雰囲気を持つ神社として親しまれています。
この地域は、利根川や常陸利根川、霞ヶ浦など水の豊かな自然に恵まれた場所で、利根川の舟運は物資の輸送だけでなく、巡礼者や観光客にも利用されました。息栖河岸は、東国三社参詣の拠点として江戸時代から大正時代まで栄え、特に「木下茶船」と呼ばれる乗合船・遊覧船が多くの人々を乗せて利根川を行き来しました。
祭神と信仰
主祭神と相殿神
息栖神社の主祭神は久那戸神(くなどのかみ、岐神)であり、相殿には天鳥船命(あめのとりふねのみこと)と住吉三神(すみよしさんしん)を祀っています。天鳥船命は、古事記において建御雷神の副神として葦原中国平定に赴いた神とされています。また、住吉三神は、上筒男神、中筒男神、底筒男神の3柱の神を指します。
息栖神社は、その歴史と共に地域の人々から篤い信仰を集めてきました。特に、江戸時代には徳川家の崇敬を受け、鹿島神宮からの影響もあり、重要な神社として位置づけられていました。
力石と祭礼
息栖神社の境内には、祭礼の際に若者たちが力比べをした「力石」があります。この力石は、神聖な場所で行われた力比べが神様との一体感を感じる機会であったことを示唆しています。
結び
息栖神社は、古代から現代に至るまで多くの人々に信仰され続けてきた、歴史と伝統を持つ神社です。その静かで趣のある雰囲気は訪れる人々に安らぎと霊的な力を与え、また忍潮井の霊水は特別な御利益を求める人々にとって重要な存在となっています。息栖神社を訪れることで、古代からの歴史や文化に触れ、その神秘的な雰囲気を感じることができるでしょう。